矢吹勝利 取締役センター長

YABUKI Katsutoshi

シービレッジ建屋全般の管理、イベント、地域対応、観光。児島商工会議所観光部会副部会長。

船出

下津井は「蘭の香り」や「金の大黒様」の話が伝わるなどロマンあふれる港町です。港は今も昔も、そして洋の東西を問わず人や物が行きかう交差点です。かつての下津井もそうでした。この港から讃岐に向かう船、そして東や西へ向かう船が出入りしました。北は蝦夷(今の北海道)に向かう船が盛んに出入りした時代がありました。「吉備の児島」周辺の干拓が進み、綿作が盛んに行われた頃のことでした。

そして港は、この町に住む漁民たちにとって欠かすことのできない生活の場でした。魚を釣りに沖に出る、獲ってきた魚や海藻を干したり加工する。浜では網を繕う。明日の延縄を準備する。全ては海に面したこの浜で行われて来ました。子どもたちは学校から帰るとすぐに海へ飛び込みました。子供たちにとって、この海はかけがえのない遊びの場でもありました。

東西に長く伸びる一本の道路、その道路の西の端に連絡船の港がありました。今は県道となっているこの道はその昔、金毘羅街道と呼ばれていました。江戸時代の末、世は一大旅行ブームに沸いていました。瑜伽大権現と金毘羅大権現、誰が言い始めたのか分かりませんが、両権現にお参りするとご利益は倍にも三倍にもなるとの言い伝えから、旅人は盛んに下津井から丸亀に、丸亀から下津井へと行き来しました。残念ながらその港は、今はありません。船を利用しての四国への行き来が無くなってしまったからです。

こうした往時の繁栄を今に伝えるかのように、細い県道沿いには軒を接するように古い家並が途切れることなく続いています。そして県道から背後に横たわる城山の方に一歩足を向けると、そこからは人一人がやっと通れるような細い路地が続きます。細い路地はどこまでも続き、まるで迷路の様です。

前置きはそのくらいにして本題に入りましょう。

中町を中心に西町から東町に至る間が下津井の中心地です。大八車が行きかう事の出来るほどの道幅で、この道の両脇には明治から昭和に至るレトロな家並が続きます。そして、この通りは伝統的な建物の保存地区になっています。うだつに連子格子、本葺き屋根になまこ壁、虫籠窓に持ち送り絵板、これらの装飾はこの町の往時の繁栄を今に伝えています。

しかしこうした建物に住む人は高齢化し、不便さを嫌う若者はこの地を離れ、過疎化は年を追う毎に厳しさを増しています。こうした街の実情を見る時に、誰かが今何かをしなければと言う焦燥感に刈られるのです。

私は2015年に「むかし下津井回船問屋」の館長として赴任しました。岡山県が中西家の建物を買い取り改装し、地域コミュニティの場として、そして観光施設としての活用が始まりました。その後、県の財政がひっ迫した時に倉敷市に譲渡されました。そして私が館長として迎えられた時には指定管理に移行し、鷲羽山の景観を考える会が管理を引き継ぎました。

観光施設とは言いながら季節によっては閑散とし、実に心寂しいほどに訪れる人の少ない施設となっていました。様々な行事を矢継ぎ早に開催し、地域住民を巻き込んだ活性化の取り組みを行いました。そして人並みに認知されるような観光施設に復するのに三年間を要しました。

そうした悪戦苦闘の最中に、近くにあり群を抜いて重要な建物が取り壊され、敷地は分譲地として売られると言う、まるで寝耳に水のような話が飛び込んできました。それは館長として赴任するときに、何とか再生活用の道を探して欲しいと宿題のように聞かされていた古民家の一つであったのです。私は家主に懇願し、一年間の猶予期間を貰いました。そして様々なルートを通じて何とか維持存続できないか、その道を探りました。あちこちに出向き様々な人にも会いました。しかし再生活用には莫大な資金が必要であり、私一人の力では自ずと限界があり、容易に新しい活用の道は見つかりませんでした。

そんな時に平成レンタカーの社長であった牧信男さんが来てくれました。そして地域の活性化に取り組もうと意気投合した直後に、今度は難波建築工房の若き社長の正田順也さんが自分も仲間に加わりたいと名乗り出てくれました。牧さんは幼少期をこの近隣で過ごしたことがあり、正田さんは古民家再生協会のメンバーでした。地獄に仏とはこうしたことを言うのでしょうか。

牧さんの息子さんとは、あることを通じて旧知の間柄でした。また、難波建築工房の三代目棟梁であった難波重喜氏も建労の委員長だった時に、同じ選挙を一緒に闘いました。人の縁とは不思議なものです。

国を動かすのも時代を動かすのも人です。人の思いこそ全ての原動力です。そうした思いを抱いた者が一同に会した時に大きな力となります。それが下津井シービレッジプロジェクトの始まりでした。この集まりは会を重ねるごとに大きくなって行き、会合の終わりには宴会で熱く語り合いました。2017年の事でした。2017年から約二年間、農山漁村振興交付金事業を取り組み、苦労はしましたが人並みの地域おこしの団体として認知されるようになって行きました。

そして今は多くの移住者が移り住み、様々な夢を実現しようと取り組んでいます。倉敷市の観光課、くらしき移住定住推進室、まちづくり推進課などと一緒になって地域の活性化に取り組んでいます。また、児島商工会議所も陰になり日向になり私達の活動を支援してくれています。私達はこれからも鷲羽山・下津井まちづくり推進協議会の傘下で活動を続けて行きたいと考えています。


牧信男 代表取締役

MAKI Nobuo

外交、業務全般。児島商工会議所サービス部会部会長。平成レンタカー株式会社 会長

地域おこし及び古民家再生は時代の要請で国策です

いつも思うのは「私たちの生きている令和の時代はどのように変遷していくのだろうか」。コロナ前の2019年までは盛んに「観光立国」が叫ばれ、インバウンド観光客が3188万人に達しました。国の方針の4000万人も数年の内に達成可能と思われました。それが登り坂、下り坂、そして「まさか」の坂です。

私たち(矢吹、牧、正田)が当初集まって集中して議論したのは、古民家再生で古民家”中西家”の再生プランです。

国策は「人口減少」「古民家再生」「観光立国」「移住定住」「まちづくり」「IT化」「地域未来投資」「外国人人材」「日本経済再生」などです。まさに私たち下津井シービレッジプロジェクトの中心的な課題。プロジェクトは当初から「下津井に於ける人口減少、古民家再生、観光による町おこし」などを標榜しながら進めてまいりました。今さらにマルシェを通じて「下津井国際交流」が始まろうとしています。

下津井の住民の方や、縁があって下津井へ移住定住された方、我々しもついシービレッジの面々で「時代を打ち抜き下津井のまちおこしが遅々とした歩みながら日本のまちおこしの見本になればの矜持をもってさらに交流人口、関係人口、移住定住を増やすとの覚悟を進めていきたいと願っています。」

これらの中心にいるのがしもついシービレッジプロジェクト事務局長の正田さんです。株式会社なんば建築工房代表 正田順也さんです。

どうかこれからも宜しくお願い致します。

正田 順也 取締役事務局長

MASADA Junya

官庁対応、移住促進、住宅斡旋、申請業務全般。株式会社なんば建築工房 代表

しもついシービレッジ株式会社を なんば建築工房として関わることを決意した経緯と想い。

下津井の今

海路が栄えた江戸の時代、北前船の寄港地として栄えた下津井のまち。繁栄を極めた街も陸路の開発など時代の流れに翻弄され衰退の一途をたどりました。一時は瀬戸内の魚が大量に採れ漁業の町としても栄えましたが、砂利運搬での環境破壊や水島の重油事故で漁業は大打撃をうけました。その中、瀬戸大橋の開通や鷲羽山の国立公園の指定などにより観光で栄えることに。そして、30年後。この下津井のまちは漁業での生計が難しくなり観光でも後れを取ることになり、過疎化が進み高齢化と空き家が岡山県でも特に高い地区になりました。急速な人口減少は、地域の空き家や古民家の維持管理が出来ず崩壊する建物さえ出る街になりました。

 そこで、2017年7月地域の回船問屋であった中西家の取壊し危機を案じた有志3名(平成レンタカー会長:牧信男氏、元廻船問屋館長:矢吹勝利、なんば建築工房代表:正田順也)が行政を巻き込んだ中西家の活用提案を行いました。建物規模が大きく中西家の活用までの道のりは道半ばですが、その中で下津井sea village project空き家事務所の改築を手掛け地域の古民家・空き家の活用などについてなんば建築工房の職人の技術・知識が地域の街づくりに役に立つのではとの可能性を感じ始めました。その為まず、2019年に漁協空き家を事務局として設置し、地域の観光振興を通じ関係人口の増加と共に移住や地域住民の参加により地域空き家の課題解決に取り組むことにしました。地域工務店として、町おこし協議会の空地・空き家活用や地域観光振興・移住者の誘致・地域イベント参加などボランティア参加をしながら町おこし事務局機能として、しもついシービレッジ㈱の共同設立を行い地域活性化に寄与しています。また、この活動を通し古民家や空き家の活用相談などを受けなんばの家づくりの経験と技術を活かす活動を続けています。

”古民家再生”のなんば建築工房

なんば建築工房は創業明治20年の職人工務店です。

そして、2012年に5代目として私は社長に就任しました。それは、今までなんばが大工として4代続いた工務店で初めて職人ではない社長の誕生です。明治から続いた工務店も昭和の高度成長期には時代が変わり職人の手仕事が非効率とされる時代となり、昭和から平成にかけ数々の工務店が技術を手放し会社経営と効率化に進みました。

3代目難波重喜の職人として真面目に全うする姿勢を守り、4代目難波恭一郎に引き継がれる頃は高度成長期なんば建築工房も時代の波に飲み込まれようとしていました。その中、職人の手仕事と現代的なモダンの融合で当時のお施主様より支持を受け職人の仕事を守ってきました。また、その頃から会社組織を立ち上げ手仕事の出来る職人の育成にも乗り出します。そこで3代目の棟梁としてのプライドと技術を引き継いできました。

そして時代が移り変わり合理化と効率化は一世風靡し、工務店でありながら工場を持たず、材料を持たず、技術のある職人がなくても家が建てれる家づくりが溢れるようになりました。デザインやコスト、省エネや耐震、もちろん大切ではあるが家づくりをするものにとって家を商品として商売道具に利用されているような空虚感がありました。昔の家づくりは地域の助け合いの『結』の精神で建てられていました。日本人としてその家族の想いや造る職人の想いが詰まった家には、文化やおもてなしの日本人の精神が込められていたような気がします。日本人の家づくりの精神を引き継ぎながら職人の技術を守っていくこのような家づくりは出来ないものか、、、、。葛藤の日々が約2~3年続きました。

 その中で2015年の正月のある日。とある雑誌に古民家再生協会の記事があるのを目にしハッとしました。もしかしたら、古民家なら日本人の家づくりの精神を守りながら職人の技術が守っていけるのではないか。合理化や機械がしにくい古民家は、当時は手間のかかる面倒な仕事であり古民家という言葉が認知されていなかった為、社内でもこの新しい取組に批判的で不安がる社員も多くいました。しかし、この取り組みは必ず古民家を所有するご家族や手仕事に理解のあるお施主様の期待に、私たちの技術で応えることが出来ると信じ半ば強引に推し進めることになりました。2015年6月から活動を始め最初の1~2年は古民家鑑定士の普及や古民家の鑑定の勉強など活動をしても成果はすぐには表れませんでした。

下津井の古民家再生

なんば建築工房として技術を活かす古民家の活動をして2年後の2017年春。とあるSNSにて地元下津井で由緒ある古民家の取壊し危機の投稿がありました。その投稿主が現在の下津井sea village projectの会長である牧信男氏でした。その投稿には、下津井の中西家という元廻船問屋の名家で建物の損傷と空き家状態が続いているため、取壊して分譲地や敷地としての再活用の話しが出ており何とか活用方法を考えないと!という内容でした。私は何も考えずスマートフォンを手にし一度話しを聞かせて欲しい!と投稿をすると、すぐに返信があり今週にでも話しをしましょうとの返信がありました。何かワクワクというか使命感を感じたのを思い出します。そして、話し合いには投稿をした牧信男氏と、当時下津井廻船問屋の館長であった矢吹勝利氏でした。(牧信男氏の息子さんは私が青年会議所時代委員長であったときの副委員長であるご縁もあった)

3名で話をしているうちに、何か出来ることを動いてみようといことになり、2017年7月に倉敷市や地域NPO・地域住民・関係者があつまり第1回目の合同会議が下津井廻船問屋蔵ホールにて開催されました。その会は2回3回と続きましたが、会を重ねるごとに地域や地元活動団体との温度差や思惑が交差し、かなり紛糾しついには地域を巻き込んだ活動としては実らず有志のみの活動として水面下に進めてきました。

 これからの工務店の家づくりのカタチ。下津井sea village project での社会貢献と技術を活かし社会に必要とされる工務店としてこれからも活動をしていきます。